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【MUSIC】ふたつの「第九」 | 佐渡裕 指揮×ケルン放送交響楽団 | レオポルト・ハーガー指揮×読響

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「第九」といえば日本の年末。
すこし泥臭いイメージで、少女時代は苦手な演目だった。
モーリス・ベジャールのバレエ作品に奇しくも描かれているとおり、万人で声を合わせ歌うというお祭り騒ぎのなかには、物理的心理的な何らかの事情でそれにのることのできないひとが必ずいる。それなのに 「みんないっしょにがんばろう!」という同調圧力が、幼いころには耐え難いものだった。

変化のきっかけは、18歳の夏にウィーンの分離派館でみたクリムトの連作壁画『ベートーヴェン・フリーズ』だった。
「第九」をモチーフにしながら「同胞愛」を排除し、「全世界のこの接吻」をメインに密やかで隠微な楽園(Elysium)を描き出すエレガンス。
愛の表現はいろいろあるし、人や時代で変わっていくものなんだ。
スノッブを気取ってなにかを頭から否定する行為は、ひどくもったいないことなんだ、と気づいた。いまの原点だ。

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いま「第九」は、わたしの年末行事にもなっている。
今年はじめての「第九」は、佐渡裕 指揮×ケルン放送交響楽団
東京国際フォーラムに集まった5000人がひとつになって、2011年3月から絶えることなく続くドイツの人びとの祈りを受けとり、感謝のなかでともに祈るような演奏会だった。

東京最終日(12/18)だったので、黒柳徹子さまも駆けつけ「徹子と裕の部屋」が展開。
おそらくイッセイミヤケの、ショッキングピンクのワッフルドレスで登場し会場を沸かせた徹子さま、曰く、
「このあと舞台は黒や白ばかりだから、みなさんにこの色を覚えていていただこうと思って」
すばらしすぎる。その後も両親のなれそめ(N響コンマスの父と東京音大声楽科の母が「第九」で出会った)からドイツでの思い出話(世話になったボン駐在大使の娘がピアニスト内田光子さんだった)まで、怒涛のごとくしゃべり続ける徹子さま。
「MCいりませんな」
と京都弁でぼやく佐渡さんが、元気なお母さんに振り回されるしっかり者の息子のようでほほえましかった!

そろそろ、という言葉をさえぎり最後に徹子さま、「歓喜に寄す」を朗読。
「すべての者は兄弟になる……こんなことを詩人シラーは、300年も前から言っていたんです。戦っちゃいけないんです。悲しいことが起こっちゃいけない」
ユニセフ親善大使として世界中の前線を飛び回ってきた徹子さまだから、心に響く一言だった。
  

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2日目は読響へ(12/19)。
初共演の指揮者レオポルト・ハーガーは、オーストリアザルツブルク生まれの79歳。
モーツァルテウム育ちの名伯楽の、なんてエレガントな「第九」!!

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軽やかな2楽章、たまらなく耽美な3楽章、そしてバロック・オペラのクライマックスのような終楽章。
バス歌手・妻屋秀和さんの「おお、友よ この調べではない!」は荘厳だし、管の旋律や弦のハーモニーが、ときおりモーツァルトのようにも聞こえた。

先日、音楽家・鈴木優人さんと「バロック・オペラの系譜としてモーツァルトのオペラを考える」という話をしたばかりだったので、さながら今夜はモーツァルト系譜として「第九」を考える、という立ち位置に。
(『世界ふしぎ発見!』のディレクターと現代の貴族文化について語った直後だったのも大きい!)

革命ですべてが断絶したと考えること、ベートーヴェンを民衆の代表としてだけ語ることってもう古いな、と痛感した。
シラーの詩も後半は、神を、美を讃えているのだ。

 アットホームで、祖母といるような気持ちになった佐渡さんの「第九」(まさに開かれた民衆のもの)とのギャップもあって、サントリーホールの、包み込まれるような美しい響きに恍惚とした夜だった。
マエストロ・ハーガーの「第九」観も、いつか聞いてみたい。

 

モーツァルト:コンサート・アリア集

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