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【Art】続 あなたがほしいの | Bunkamuraザ・ミュージアム「エリック・サティとその時代展」

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今回も「エリック・サティとその時代展」のお話を。

前回、ミント色の壁に音符のように並んだ『スポーツと気晴らし』までをご紹介したが、その中身をよく見てみよう。

『スポーツと気晴らし』は1914年、社交界で活躍したヴァランティーヌ・グロスを介して知り合った出版者、リュシアン・ヴォージェルの依頼で制作された。ヴォージェルは教養ある耽美主義者としてファッション界にも通じ、いくつものメディアをもつ名プロデューサーだった。序文のサティの言葉はこう。

このたび刊行した作品は2つの芸術ジャンル、つまり素描と音楽から成り立っている。素描のほうは線(トレ)―機知にとんだ言葉(トレ・ゼスプリ)―であらわされていて、音楽のほうは点(ポワン)―難点(ポワン・ノワール)―で表されている。

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エリック・サティ(作曲)、シャルル・マルタン(挿絵) 『スポーツと気晴らし』より《カーニヴァル 1914-23年 紙、ポショワール フランス現代出版史資料館 Fonds Erik Satie ‒ Archives de France / Archives IMEC

サティの楽譜の美しさ、これだけでもおわかりいただけるのではないだろうか。

シンプルだが情景描写的な曲に(海水浴、ゴルフ、競馬にテニス、まるで音符が馬やボールのよう!)、皮肉をこめた言葉の断片。マルタンの挿絵もおしゃれで、さすがモード雑誌である。わたしのお気に入りは「目隠し鬼」。

探してやってください、お嬢さん。

あなたを愛する男はわりとすぐ近くにいますよ。

ぱっとしない奴です。唇が震えていますから。…

彼は両手で自分の心臓を抱えています。

でもあなたは彼に気づかず通り過ぎるのです。

冒頭の写真は、サティと同時代に製造されたベヒシュタインのピアノ。この展示室では会期中、ピアノの生演奏も行われる。

http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/15_satie/topics/post_1.html

 

さて、展覧会のつづきをはじめよう。パリのメジャーシーンに躍り出たサティは、実り多き時代を迎えた。「第4章 モンパルナスのモダニズム」である。

1917年、若き作家ジャン・コクトーは、上流階級の嗜みとしてのバレエ・リュスに「現実」を突きつけることを考えた。コクトーが脚本、パピカソが衣装と舞台装飾、そしてサティが音楽を手がけた『パラード』は、ミュージックホールやサーカスなどの大衆娯楽――中国の奇術師、アクロバット、パントマイムの少女などを取り入れ、賛否両論の大反響を生んだ。

1924年には、ダダイストのフランシス・ピカビアとスウェーデン・バレエの公演『本日休演』を手がける。大衆的なものを賛美するこのバレエのため、サティは流行歌を引用した。また、上映されたルネ・クレール監督の映画『幕間』では、無声映画が主流だった時代に映像に合わせた音楽(サントラ)を作曲した。

こうした活躍によって、サティは若い世代の芸術家の神になった。

美学も音楽スタイルもまるで違うが、サティ愛で結ばれた作曲家オーリック、ミヨー、プーランク、タイユフェール、オネゲル、デュレは、コクトーのプロデュースで「6人組」を結成。サティも彼らを弟子のように愛した。とくに紅一点のタイユフェールのことは、「音楽上の娘」と呼んでいたらしい。

ピカソがポスターやプログラムを手がけた「エリック・サティ音楽祭」もこの頃だ。ブランクーシ、ブラック、マン・レイなど多くの芸術家とも交流した。

ブランクーシが撮影したサティの肖像(下写真)に、若き日の偏屈の面影はまるでない。なんていい表情だろう。

サティは彼のアトリエの常連だったが、そこにはいつもおいしい料理と音楽と仲間があった。

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ブランクーシのもてなしは、万年金欠のサティを助ける意味合いもあったという。尊敬をよせ、芸術や古代ギリシャへの愛を分かちあい、さりげなく支えてくれる友たちの存在は、サティをどんなに満たしたことだろう。

友人たちが体調の悪化したサティを病院へ入院させた後も、ブランクーシは病室に手料理を運んだという。

そして「第5章 サティの受容」。

サティは1925年に没するが、その後も作品は愛されつづけた。とくに彼を好んだのは、ダダイストたち。特にマン・レイは『エリック・サティの眼』や『エリック・サティの梨』など、サティをモチーフに作品を数多く制作した。

マン・レイは、1921年にパリへ来た当初フランス語を話せなかったという。英語が話せるサティはそんな彼を助け、意気投合してカフェに繰り出した。その日の帰り際、マン・レイはサティの手助けでアイロンと鋲を購い、最初のダダのオブジェをつくった。その名も『贈り物』。のちにマッチ箱にサティの写真の眼をはりつけ、マン・レイはサティをこう讃えた。

眼を持った唯一の音楽家

これは、視覚芸術をも刺激した音楽家への最大の賛辞だった。

個人的には、1970年代にロックバンドのピアニストから画家に転身したニック・カドワースの一連の作品が好きだった。写真から肖像画を描いたり、サティが考案した「演奏不可能な楽器、セファロフォン」を完成させたり、サティと犬との隠れた関係性を謎解いたりーーまさに愛なくしてはできないオタクぶりである。 

正直、エリック・サティを媒介にして、ここまで愛に満ちた物語の数々に出会えるとは思っていなかった。

音楽界の変わり者や異端、といった従来の語り口では見えてこないものが、アートという切り口ひとつでこんなに見えてくる。

だからこそ私は、いつだってジェネラリストでありたいのだ。

 

サティ愛は、本展のミュージアムショップにも引き継がれている。 

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ナディッフモダンでは、『サティおじさんのおかしな交遊録』(NAXOS)のサティおじさんやドビュッシーラヴェルストラヴィンスキーなどのイラストをモチーフにした、オリジナルグッズを数量限定で販売。

また、ドゥマゴや近隣のブラッスリーVIRONでのタイアップメニューのほか、PAULとのコラボも見逃せない。

PAULは1889年、パンづくりの名職人シャルマーニュ・マイヨによって、フランス北部の街リールに生まれた老舗のベーカリー。日本でも年代を感じさせる古木やシャンデリアを用い、シックでエレガントで温かみのあるベーカリーを再現している。

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PAULでは、サティが大好きだったフランス仕様のシュークリームを提供。また、図録購入者にコーヒーチケットのプレゼントも(枚数限定)。美味しいコーヒーとともに展覧会の図録をめくり、展覧会の余韻に浸ってみては、という粋な趣向だ。

エリック・サティとその時代展」は8月30日まで開催中。

音楽と美術と暮らしと。すべてを愛する同志に楽しんでほしい、この夏の祝祭である。

www.bunkamura.co.jp

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