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夏にさようなら

晩夏。閑散とした避暑地。夏の名残の薔薇。
やってくる9月は秋というより、去りゆく夏を見送る季節だ。
昔から惹かれてやまないのはその感傷のせいなのか、はたまたお誕月の幸福な思い出のせいなのか。
今年もザルツブルクは夢だった、いや、そうでなくとも野外フェスで満喫したかった、などとあがきながら、刻々と涼しくなる季節に不思議な安らぎを感じている。
この夏はじめの肌寒い夜に、ブランケットに包まったときの幸福感。
タイトルは、そのとき深夜のラジオで流れていたレトロな歌謡曲だ。
 
今年も『失われた時を求めて』一気読みができなかった。
なぜだか、私にとってマルセル・プルーストは夏の作家なのである。
夏休みの、といったほうがいいかもしれない。
高校生の頃、鈴木道彦完訳全集の刊行*1が始まり、読み始めたのがこの季節。
ティファニーの小箱のようなペールブルーの、上品な函入りの全集は、私にとってフランス文学そのものに思えた。
読みながら乗った電車に差し込むまぶしい光の中で、ヴェルデュラン夫人のサロンの光景に浸りきっていた瞬間を、今でも思い出すことができる。
そのときはまだ、第一篇「スワン家の方へ」の第二部「スワンの恋」にさしかかったばかりだった。

この章では主人公スワンの芸術の趣味が語られるが、特に音楽が、大きな役割を果たしている。*2
ここでは音楽は、薔薇の匂いにたとえられる。輪郭をはっきりと識別できず、名指すことができないものだ。
スワンは音楽を知らなかった。一方で、美術については素晴らしい知識を持っている。
スワンは、音楽そのものについて詳しく知らなかったので、音楽を“記憶”によって、自分にわかる視覚的世界に“転写”することでとらえ、理解した。
このように音楽を、純粋音楽でなく、嗅覚や視覚などとの関わりの中でとらえようとするとするのは、19世紀末の象徴主義の特徴でもある。
(これは私の一生の研究テーマ!)
具体的なもの、物質的なものの“記憶”が、流れては消えてゆく音楽をとらえる……あの有名なマドレーヌと紅茶のくだりは、その最もたる例なのである。

これはある意味、女子的な音楽の聴き方、すなわち「乙女のクラシック」に関わる問題だと私は考えている。
ほかにも、スワンが惹かれた音楽家ヴァントゥイユのモデルがドビュッシーであったことや、プルーストドビュッシーの関係(プルーストと親しいレイナルド・アーンがドビュッシーと対立していたとか)、ふたりの生き方の違いなど、興味は尽きない。
これはいつか、どこかで発表したいと考えている。

失われた時を求めて〈1〉第一篇 スワン家の方へ〈1〉

失われた時を求めて〈1〉第一篇 スワン家の方へ〈1〉

 

 

*1 マルセル・プルースト著、鈴木道彦 全訳『失われた時を求めて 1』、集英社、1996年。
全集は13巻の「見出された時」まで続く。発行は2001年3月。1998年には、ジョン・マルコヴィッチカトリーヌ・ドヌーヴらが登場人物を演じた同名の映画がフランスで公開されたが、日本ではネタバレ防止(?)のためか、2001年まで先送りされた。

*2 プルーストと音楽についての研究は、実は前例が多くある。たとえば代表的なものが、音楽記号学者ジャン=ジャック・ナティエの『音楽家プルースト』(斉木眞一訳、音楽之友社、2001)。
失われた時を求めて』はしかし、音楽以外の芸術、美食、風俗などすべての事物が魅力的で、それぞれに素晴らしい論考がある。
私のお気に入りは、アンヌ・ボレルらが著した美麗写真&レシピ付の『プルーストの食卓』(やはり鈴木道彦訳で、宝島社より刊行)。