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なぜ乙女はオネエMANがすきなのか

2009年のベストセラーのひとつ『乙女の日本史』(堀江宏樹/滝乃みわこ、東京書籍)を読了。 
くそう、おもしろいじゃねーか!というのが率直な読後感。
やられた、また出し抜かれたのだ、堀江組に。*

夏に書店ではじめて見たときは、また堀江ネエさんが「女のサガー」とか「男色とはー」とかすっぱだか日本史を披露するんでしょ、となめてかかっていた。
でもどうしても目につく。ずっと平積みだし。だんだんポップとか増えてるし。なによりピンクでかわいいし。
売れているのがよくわかって、そういう本が作りたいわたしとしては無視できなくなって、読んでみた。
 
当然だがおもしろい。
歴女」が流行語になるくらいだから、関連本といえばフィクションも含めて多数あるわけだが、多くがレキジョが歴女たるゆえんをわかっていない「おんなこども本」(オジサンが作ったのだろう、オジサン史観を薄めたような仕上がりの便乗本)か、腐女子の妄想暴走きわまれりの「乙女ファンタジー」に甘んじている。
そんななかで『乙女の日本史』には、その両方の目線をいいとこどりして裏づけしてわざと軽やかに演出したような、不思議な筆力がある。

まず、 
・通史として書かれているので新しい発見が多い。
・俗説をとりいれているように見えて、そのすべての説にことごとく史料批判がなされている。
ここで「さよならオジサン史観」という強い意志は、多くの読者に伝っただろう。加えて、 
歴女にとって大きな価値を占める関係性(夫婦あるいは不義の恋愛、男同士の熱い絆、人物像の心理的掘り下げ)についてのツボを押さえつつ、
・冷ややかともとれる絶妙な距離感をもってさらりと語っている。
  これがすごい。
これは、オネエであることがほぼ公式である堀江宏樹だからこそできる鮮やかな手並みだ。


乙女/腐女子はいつも、当事者がみずからを定義するのをあまりよしとはしない。*
でもそれがオネエなら――アリなのである。
たとえばへたな腐女子のライターが、
直江信綱といえば、なんといってもミラージュは名作ですよね!“俺たちの最上の在り方を……!”きゃはー☆」
と書いていたらひどくしらけるのだが、堀江さんの場合はこう。
「90年代乙女を戦国萌えへ導いたライトノベル。大河(天地人)の直江役が山下真司と知り、涙したファンは多数とか……」
この、一歩引いたかんじ、わかるだろか。
第三者のスタンスを取りながら、乙女にしか知りえないツボを知っているこのかんじ、これが乙女には心地いい。 
 
 
たとえばBLのなかで男だけの世界を展開するのが「知性の武装」であるように、乙女はみずからを客観視するとき「男」という媒体を必要とするのではないか。
まぎれもなく男でありながら、乙女に寄りそう完全な「乙女回路」を有するオネエという存在は、乙女のなによりの理解者であり、具現者であるのではないか。

このブログのタイトル「乙女のクラシック」も、実はそういう演奏家のコンサートのあとに考えたものだ。
だからこのブログが時折男っぽいといわれるのも、わたしにとっては当然の帰結だったりする。
乙女は「おとめ」であって「おとこ」でも「おんな」でもない存在、その象徴なのである。 

乙女の日本史

乙女の日本史

 

* 『マリー・アントワネットとフランスの女たち』(春日出版、2008)のときも同じことを言っていた。

年も近いので勝手に「こころのライバル」視。
『乙女のクラシック』だけは渡さないんだから!

* やはり女性のなかに、ふにゃふにゃと核心を避けたり、ただ核心だらけで暴走するだけの書き手が多いのは事実だとおもうし、目の肥えた乙女がそれを忌避する気持ちはわかりすぎるほどわかる。
もちろんこれは、三浦しをんよしながふみや、そういう名手のエッセーは別格とした一般論の話