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ある四畳半神話

そうだ 京都、いこう。
と思い立ってからこの方、生活に本来あるべき張りが出てきたのである。

なぜ京都なのかといえば、お察しのとおり祇園祭(=池田屋)ではあるのだが、そこに輪をかけてわたしをかの地へと向かわせるのが折からの四畳半主義者たちであることも、わかるひとには明白だろう。
四畳半主義者とは、森見登美彦四畳半神話大系』(太田出版)に登場する大学三回生の「私」(あるいは著者)のように、かわいさと貧乏くささを合わせ持つステキなことば「四畳半」をこよなく愛し、日々妄想平衡状態を保ち右往左往する者の総称である。
「私」は(やはり著者も)京大生であり、れきとした左京区の住人である。
下鴨神社糺の森叡山電車に鴨川デルタといった左京区の名所のほかにも、先斗町高瀬川やと登場する京都の地名に、京都、いこう。とならない読者はいないはずだ。
ただし著しく左京区限定だ。

2005年に刊行された原作が今春からノイタミナでアニメ化されるにあたって、平生原作好きには苦悶となるはずのこの現象も歓迎ムード一色であった。
なにしろ、「原作がやや風呂敷を畳み損ないがちの森見登美彦氏であり、キャラクターをデザインするのが『夜は短し歩けよ乙女』を愛される作品にしてくれた中村佑介氏であり、脚本を書くのがハニカミがち超絶技巧の人である上田誠氏であり、監督するのが「マインド・ゲーム」の迫力でちょっと登美彦氏を怖がらせた湯浅政明氏である、と言う風に見ていくと、「何やら大いにヘンテコなものができそうな、きな臭い気配が…」という期待に胸が膨らむ」*というのが著者も含めたサブカル界隈の共通認識だったからである。
乙女(と一部の男性諸氏)界隈では、明石さんを演じるのが坂本真綾、というのも重要な要素であった。

わたしは、春の病ともいうべき弛緩したした日々に別れを告げ、いろんなものにも別れを告げ、日々黒髪の乙女たらんと邁進し続けてきたのである。
  
明石さんだけではない。
四畳半世界の人びとには、躾がある。
博覧強記の重厚な(ように振舞っている)文体のなかで明治時代の書生のように暮らし、「そうなのですれども」と話し、莞爾と笑う。
その実舞台はあきらかに現代であり、池田屋跡はパチンコ屋であり、明石さんはモリカゲキョウトのシャツを凛と着こなしているのである。
躾を取り去ったらわりとよくあるモラトリアム学生ものである物語を、森見氏は、その流れるような文体と、現実と地続きのファンタジー感覚と、鋼のよう揺るがぬシャイっぷりによって四畳半神話へと、昇華させた。
偉大な功績である。

かてて加えてアニメーションでは、中村佑介によるキャラクター、主題歌を歌うアジカンやくしまるえつこ、なによりも上田誠の精緻に練られた脚本や湯浅監督の奇才ぶりが、灰色のはずの四畳半世界を鮮やかに彩り、豊かに広げてくれた。
浅沼晋太郎の一人語りや城の内ミサの劇伴は、「ただ文章のリズムに乗り、妄想を膨らまし、ことさら尊大な顔をして相手からつっこまれるのを待つ」という森見文体とその美点を損なわず、むしろ忠実に再現し、ただ耳で聴いているだけでも心地よかった。

真実、四畳半はわたしの木曜の慰みであった。

客として友人夫妻の居間で最終回を見ながら、わたしは、たしかに涙ぐんでいた。
押しつけがましい涙の強要も、それにともなう人の死も別れもない――強いて言えば「私」が四畳半を飛び出しすっぱだかになり女装した親友を救出し蛾の大量発生に心神喪失した明石さんとの恋を成就させただけのラストに。

しっかり見続けるわたしの目の前で、『四畳半神話大系』は四月から続いた放映を終えた。
かくしてわたしは楽しみを一つ失った。**
 


 
この九月に、わたしは京都を訪れることにした。
もちろん著しく左京区限定で、すでに哲学の道に程近い宿をとっている。
そのときの様子は、おそらくここでも大げさに描かれることだろう。

わたしのなかにも四畳半は生きつづける。
さまざまなものといっしょに人は四畳半を手放していくけれど、なかには手放せない思いもあって、でも時間は二度とは戻らない。
甘やかな痛みを噛み締めながら、わたしたちは日常を生きる。
 

 
http://yojouhan.noitamina.tv/

四畳半神話大系

四畳半神話大系