Salonette

Mai Takano Official Site

三世代のヴィヴァルディ

Sony Music Foundation(ソニー音楽振興財団)の「子どもたちに贈るコンサート・シリーズ」に行ってきた。
今年は、“三世代で聴く、イ・ムジチの「四季」”。
そう、「四季」である。
郷愁と親しみと、“ホーム・クラシック”の軽侮と。
それでもヴィヴァルディは、ヴィヴァルディ。
子どもたちは素直だ。
聴きなれた「春」や「冬」のラルゴだけでなく、あらゆる音、色彩を感じているのだろう、体が動く。*1
となりの両親も、祖父母も、ある時代に思いを馳せている。
あるいは、家族そろってコンサートを楽しむ幸福を思う。
三世代という、ありそうでなかったコンセプトは新鮮で、ここから広がっていく可能性は十分にある。

子どもや初心者への配慮は、スペシャリストたるSMF、よくわかっている。
まず感心したのが、プログラムに記された「拍手は、ここで」の文字。
音楽業界の人間は、これは世の中の99%の人が本当にわからないのだ、くらいに考えるべき。
ビギナーが多いとわかっているなら、このくらいしてもいいのかもしれない。
安心して拍手ができるし、音楽に参加しているように感じるのか、子どもたちもどこか誇らしげだった。
親子で在籍するメンバーを紹介したり、終演後に出てきてサインをしてもらえたりと、アーティストと聴衆の距離を近づける工夫も随所に見られた。
「結婚前、妻にプレゼントした初めてのレコードなんだ」というのと同じくらい濃密な思い出が、同じ“イ・ムジチ”を通して家族に共有されていく。

いつも私を悩ませる、初心者とファンのダブル・スタンダードについて。*2
実は、私の隣席の青年(関係者?)は、途中退席して戻らなかった。
あからさまなため息。
たしかに耳のよい音楽ファンなら、ピッチなど、物理的に辛い面もあっただろう。
ただ、そぶりを見せることでほかの聴き手の心を乱すのであれば、むしろ来なければよかったのに。
住み分けは、やはりある程度は必要なのだと思う。
音楽の空間の意味を考えるということも。
親から子へ受け継がれるメンバーの心意気を聞いて、考えさせられた。
これは“イタリアの民族音楽”。
伝統の職人芸。
ヴェネツィアの旅情、あるいは60年代の郷愁を誘うもの。
一種のイベントであり、いつものクラシック・コンサートの聴き方とは、明らかにチャンネルが異なる。

家族向け、初心者向けだからといって、隔離していいのか。
そうではない。
本物を、抜粋でなく本物の聴き方で、聴いてほしい。
ただ多くの家族連れにとって、今回の「四季」の魅力のかなりの部分が、“あのイ・ムジチ”(アンケートより)にあることを忘てはならない。
“イ・ムジチ”でなえれば気づかなかった人、来なかった人はどれだけいるのか。
ラ・フォル・ジュルネでも、のだめでもいい。
イベント性、メディアの力は否定できない。

問題は、そこにやってきた人たちを、どういう方向で根づかせるか。
決して直接的に、あの手この手でマニア的コンサートゴアーにしようということではなく。
重要なのは、彼らの生活のなかで少しずつ、でもあたりまえのようにクラシックが根づくこと。
そんな“聴き方”や“聴く場”の提案ではないかと、私は思う。
まず「このコンサートではこんな人がこんな曲を奏でる」の前に、「テーマは●●!」が必要になる。
何がおもしろいのか、すばらしいのか、わかるのか、そういうコンセプト。
知識は、あったほうがおもしろい。
マナーもあれば、拍手の子どもたちのように誇らしい。
でも、そのためには経験を重ねるしかないのだから。

耳が肥え、自分の好き嫌いができれば、自然にマニアになる人もいる。ならない人もいる。
今日以来、ずっと「四季」だけ好きな少年がいるとする。
他に聴くのはプログレ・ロックだったりする。
大人になったある日、ふとイル・ジャルディーノ・アルモニコの「四季」を聴いてしまい、そのパンクぶりにしびれる。ふたつの共通点に気づく。
彼はきっと、バロックが好きになるだろう。
その可能性、選択肢は、すべての人が持っているのだ。

 

ヴィヴァルディ:協奏曲集《四季》他

ヴィヴァルディ:協奏曲集《四季》他

 

 

 
*1 ある少年の解説で、山手線の駅で「秋」の第3楽章アレグロがつかわれていることに気づく。そういえば!
 
*2 この前日くらい、あこがれの「エスクァイア」編集部にて郷里の大先輩らと激論を交わしたのも手伝い、いろいろ考えさせられたコンサートだった。
ヴィヴァルディと「エスクァイア」については、以後も書いていきます。