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a Day in Our Life

ときどきネット世界に対して「逆ひきこもり」をしてしまうのだが、そういうときはたいていなんらかの命題に夢中になっている。
リアルでは仕事に出かけるしデートもする。
ただ、その隙間にディスプレイと向き合う暇があったら本を読み進めたいレコードを漁りたい、そういう心理状態のときがあって、リアル世界に「ひきこもる」のだ。

今年に入って「逆ひきこもり」の命題となっているのが、ここ30年の日本のロック/ポップ音楽シーンの変遷である。
もう、音楽だけはもりもり聴いている。
なぜいま「ここ30年」の「日本」の「ロック/ポップス」かというと、80年代、90年代、00年代の日本がちょうど自分の生きてきた30年とその環境であるにもかかわらず、ここがいちばん距離を置いてきたジャンルだからだ。
岡田徹さん(ムーンライダーズ)のインタビューをしたことがきっかけかもしれないし、30才という節目を迎えたことが影響しているのかもしれない。
  
 
15日発売のBRUTUS(マガジンハウス刊)の特集「ポップカルチャーの30年」で、その思いはピークに達した。
川勝正幸の年表をピチカート・ファイヴを流しながら読み、湯山玲子の女子文化進化論(?)の是非一斉送信メールで問いかけ、菊池成孔による客観的日本歌謡史(締めがエヴァ)に絶句。
iPodは(もはや30年の枠を超えているが)はっぴいえんどからYMOから達郎から渋谷系はもちろん、TK、流派-R系まで一時カオスとなった。
再発見だらけ。
知ることの快楽に、やみつきになる。

だってリアルタイムと言っても、80年代は幼すぎたからただ耳に残っているだけだし、90年代はクラシックに夢中で半ば仙人めいた学術探求をしていたものだから、わたしはロックとポップスについてほとんど無知といってよかった。
識字と同時に活字中毒になり、モーツァルトに夢中になり、「歴史を学び名盤を辿る」というクラヲタ(レコード派)的手法を身につけてしまったわたしにとっては、ヒットチャート<体系。
あるアーティストに傾倒すると、まず代表作を聴き、デビュー盤にさかのぼり(もちろんすべてマスターピース)、さらに彼らが影響を受けたアーティストを辿る。
ルーツ探しの旅をしてみる。
これをしないと「わかった」気になれないのだ。
ついでにインタビューなどを読み込んで、人となりを「わかった」ことで「惚れる」。
宇野常寛のいう「Before」型、それがわたしである。
そしていまさらながらそうしていることが、楽しくてならない。
なんとなく感覚で好きだったアレとアレが、アソコであんなふうにつながるなんて――!
  
 
実感としてのリアルタイムが存在していたとすれば思春期のわずか数年間だ。
小沢健二などの「例外」は別としても、あるアーティスト/ジャンルのなかでピンポイントに輝いていたディスクや楽曲がある。
たとえば以前も紹介したスピッツの『ハチミツ』だとか、何枚かのミスチルのシングルだとか、小室ワークスの一部だとか、もうどうしようもなく甘酸っぱいなにかといっしょになっていて恥ずかしくて聴けないものもある。
わたしと妹(1983生)はよく、「きょうは90年代しばりで」などと決めてカラオケをするのだが(「ディケイド・カラオケ」と名づけている)、安室奈美恵のDon't wanna cryでは、タイトルにもかかわらずかならず泣いてしまう。

音楽は、たしかにわたしが生きていたあの日を彩ったなにかである。

わたしはよい音楽の普遍性を信じるが、一方で音楽とそれが生まれた時代は切り離せないと思うし、それ以上に音楽が生み出される背景となった人びとの交流、というのがたまらなく好きだ。
文学でもマンガでも映画でも、ジャンルを超えて。
もう、こういうところから「関係性」フェチなのだ。
大学に進むときに、受かっていた芸術系の学科と迷って最終的に史学科を選んだのは、「音楽そのもの」以上にその「時代」や「関係性」を知りたかったからなのかもしれない。
そうして、いまのわたしがあるように思えてならない。

わたしは90年代のあの日々を、ひねくれた少女なりに楽しんでいたのだろう。
みんな口をそろえて「暗雲立ち込める」とか「ぬるい」とかいうけれど、そんなにひどい時代だったのだろうか。
もちろん00年代を含めて。
わたしには、いろいろなことがありすぎて語りつくせない。 

ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

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