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我思う、ゆえにBLあり

熱が下がらず3日ほど寝込んだが、頭痛がそこまでひどくなかったので、貪欲にインプット作業を続けた。
新書2冊、マンガ6冊、映画1本。*
すべてが渾然一体になって、このフレーズが浮かんだ。

わたしはたぶん、世間一般が言うところの腐女子である。
しかしその分類名がキライだった。
だから、『腐女子彼女。』という作品は映画になってはじめて手にとった。
そして、映画としての出来やファンタジーを差し引けば、とても率直で共感できる女の観察記録だと感じた。
ヒロインの思考回路や妄想暴走やそれを共有することの愉悦がわかるし、でも現実のパートナーも大事だし、なにより仕事が一番大事というのもわかるからである。
有名な『となりの801ちゃん』もそうだが、ヒロインはいずれもバランスをもって社会に出てちょっと悩む(きれいな)女であり、それを男性の筆者が描写するという普遍性があったから人気が出たのではないか。
ただ自分の世界に閉じこもるだけで外に出て行こうともせず、「ほんとうのわたしをわかってほしい」というだけの少女マンガだったら、これだけのメディア展開はなかったはずだ。

ヒロインが仕事=自分の人生に結末のような考え方を持つに至る描写は一切なされないが、彼女はおそらくクレバーで、仕事がデキル人なのだろう。
わたしは頭のいいひとが好きだ。
頭のいいひとが、考えて考えて、答えが出せないのに考えてしまう物語が好きだ。
それを描くのがBLだと思っているし、腐女子の一部はそういう傾向の女性だと思う。
女性の先輩ライターに訊いても、いわゆるBL的な世界を経過してきたひとは圧倒的に多く、ものを書く=考えることの根源にあることがわかる。
  
 
人間は言葉で認識し、思考していく動物だから、言葉にできないものを認識することはできない。
でも言語化できない“想い”というものは存在するから、それが認識できるまで考えてしまう。他人に投げることができない。突き詰めて、考えるしかない。とてもとても生きにくい人間。
そういう、自分に似たひとがたしかにいるんだということをわたしは、ヘッセで知った。
13か14のときだ。

私は、自分の中からひとりで出てこようとしたところのものを生きてみようと欲したに過ぎない。なぜそれがそんなに困難だったのか。…われわれはみんな同じ深淵から出ているのだ。しかし、みんな、その深みからの一つの試みとして一投として、自己の目標に向かって努力している。われわれは互いに理解することはできる。しかし、めいめいは自分自身しか解き明かすことはできない。
ヘルマン・ヘッセデミアン』(新潮文庫
ところが、世の中の主流であるところの少女マンガや小説やドラマでは、頭の悪い女が「ふぇ~ん」と言う。あるいはそう言い出せなくてウジウジしたりする。
そんなもん知るか!と怒鳴りつけたかった。

萩尾望都の『トーマの心臓』(小学館)を読んだときに、これは新しいデミアンだと思った。
漱石や谷崎や少年マンガの「そういう」読み方を覚えたときも、そうだった。
ホモセクシュアルとかそういうことはまったく思考の外で、男女の恋愛にある惰性や制度や生殖という付加がない世界に、自我と自我の純粋な対峙とつながり(=孤独と連帯)を見たのである。
自我から生まれる孤独。認め合うことの喜び。その連鎖。

当時はBLということばがなく、あえていうなら「耽美」と呼ばれていた。
ドロドロしすぎて違うな、という作家も多かったが、森茉莉やワイルドも好きだったので、悪くはない響きだった。
その名のとおりの、唯美主義的な絵の世界も影響していたのだと思う。
ところがわたしがまさに少女を卒業する頃、リブレ出版の前身がBL(ボーイズラヴ)ということばを打ち出した。
ウジウジ主人公がカッコイイ男の子に見初められるような明るく楽しい学園もの。アラブの王様にさらわれるハーレクイン。セックス描写が過激なリーマンもの・・・このどこが「ふぇ~ん」と違うのだろう?
 
 
わたしのBL歴にはここから約10年間の空白がある。
頭は乙女回路のままだし、そんな自分と折り合いをつけるように女子としての処世を身に着けて生きてきたが、ある程度発言できる年齢に達したとき、周囲に同じように生き抜いてきた同志がたくさんいることに気づいた。
象徴的だったのが、「OPERA」(茜新社)や東京漫画社の台頭である。
草間さかえ、トジツキハジメ、中村明日美子、そしてヤマシタトモコ
オノナツメが、bassoというペンネームでBLを書いているのも有名だ。
BLを打ち出した張本人であるリブレも、「新しい少女マンガ(24年組を継ぐもの)」という方向性を模索し始めている。

思索に基づいた、関係性(シチュエーション)に重きをおくストーリー。
本を読む人だけがわかる、考え抜かれたネーム。
幼稚ではないが、耽美より洗練されたシンプルな画。

BLはいまも、わたしにさまざまな美しい感情を教えてくれる。

力のある作家は、しばらくすると男女のなんでもないストーリーにも存在感を発揮し始める。
そのなかで、作家自身が女としてどのように生きてどのようにあがいてきたのか――妄想かもしれないが垣間見えたとき、わたしは彼女を信じてきてよかったと思うのだ。
  
 
  
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デミアン (岩波文庫 赤435-5)

デミアン (岩波文庫 赤435-5)